こんな素敵なフリー素材を、経産省が提供しているらしい。
Photo by Tokyo Metropolitan Park Association is licensed under CC BY 4.0 International
ページの作りこみにも、開いたときに流れる音楽にも感動してしまったのでメモ的にブログ更新。
こんな素敵なサイトで、日本各地の風景を収めた無料写真を使えるとのこと。
出典明記で自由に使用ができるそうな。(詳細はホームページ参照のこと)
見ていたら全国に足を運びたくなるような、そんな はっと息を飲む美しさ。
一目見るだけでもいいし、素材として活用してもいい、そんなウェブサイトでした。すてき。
ちなみにこのブログに張り付けている写真も、このサイトから拝借しました。
東京の、小石川後楽園 でした。
おしまい。
私は私らしく、私の道を歩くだけだっていうこと
一体、自分の人生は誰のもんなんだっていう話で。
それは、「自分」という人格を持った人間が決める話で。
じゃあ、自分という人格を作ったのは?
きっと周りの環境ね。
私らしさって?
つまり周りの環境に創り上げられた「自分」が、その思考回路に沿って下す決断の、行動の、総合によって醸し出されるなにかなのかなあ。
つまり、人生って自分の経験から導き出される複数ある選択肢から、自分という人格から見た最適解を選ぶってことなのね。
合理的でも、社会的に見て最適でもないかもしれないけど、
それが自分の人生なのね。
誰かの存在に引っ張られて、変な選択をしてしまうのも、それも自分らしさなのね。
でも、幸せかどうかは分からない。
でも、幸せっていうものも、自分自身で規定できる。
ややこしい世界ね。
純粋に心を落ち着ける方法を考えていたら、脱線した話でした。
おしまい。
普通ってなんだろうという問いは、一般論を探ると出てきて、同時に日本人がどれだけ一般論に縛られているかも理解できる件について
さいきん、めっきり朝に弱くなってしまって、時間通りに出社できません。
仕事が嫌なわけでもないし、出社が嫌なわけでもないけど、起きられない。きっと時間通りに行っても仕事なんてやりたくないんじゃないか。寝たいし。
会社の人たちは好きだし、仕事なんてむしろわくわくしている。
でも、起きられない。ちょっと夜更かししているからかもしれないけど、それにしても以前よりずっと起きられない。寝てるのも、いつもならちゃんと朝起きられる時間だし、なあ。
歳か?20が過ぎてわずかしかたっていないのにもう歳なのか?
ううん、なんでだろ。
まあ、いっか。笑
朝起きられない、いつもの時間に出社できないってことについて考えると、(いわゆる)普通からはずれているという結論が出てくるんだけど、それは確かに一般論であって、多数の人々は出社時間を守って出社して、働いて、残業してるんだよなあと思う。
それを”正しい”と理解するか、”おかしい”と理解するか、それとも。
個人的には、決まりを守ることは素晴らしいと思いながらも、私はできなさそうと直感的に思っている。今のところはね。
それが普通じゃないからダメだ、とする人とは、私は仲良くなれないかもしれないけど、それはそれで良いんじゃないかと思うし、窮屈になってまで、仲良くなるのも相手に失礼だから、まあ、私は私で良いのだろうな。
うーん、思考しながら書いていると、はちゃめちゃな文章になる。
それもそれで。
徒然らしいブログでした。
おしまい。
経験は価値だと思う
経験は価値だと、最近身に染みて思う。
競合が来たことが分かったら、わずか数時間で自分が担当していた事業が廃止になっていた。それでも挫けず、新たな業務に邁進する。
年功序列の色が強いところで、とにかく認めてもらうために朝4時から仕事をし、成果を出した。
大企業の進出支援を、現地調査員として学生であるにも関わらず一人駐在し、営業、交渉すべてを担い、最終的に契約まで持っていった。
そんな話がごろごろ出てくる。
みんな、泣きながら、傷つきながら、それでも前を見て一歩ずつ進んでいる。
諦めない。恐れても立ち止まらない。
みんなが口を揃えて言う。
「地道だ、泥臭い」と。
華々しい成果の後ろにはどれほどの泥臭く地道な作業が積み重ねられているのか。
ああああどれだけの努力と挫折とを繰り返しているのか。どれだけ葛藤してきたのか。
どれだけそれを乗り越えて今ここで私に話をしてくれているのか。
そんなことを思うと胸が熱くなって鳥肌が立つ。
ひとりひとりにひとりひとりのストーリーがあるのだろうかと思うと、ぞくぞくして仕方がない。
1秒、1分、1時間。全く同じ時間の尺度のなかで、同じ地球上で人生を歩んでいるにも関わらず、人の人生にはどれだけの色があるのか。どれだけのストーリーがあるのか。
経験という価値。経験という宝。
この言葉を噛みしめた。
より一層気を引き締めて、価値を、彼らのストーリーを、世に伝えて行かねばと思った。
おしまい
たまには人間よっかかりたくなるんだもの。
たぶん、Twitterで、
「自立している(様に見える)人は、依存できる人の数が多いから、
一人一人に依存する量が少ない。
自立できていない(様に見える)人は、依存できる人の数が多いから、
必然的に一人一人に依存する量が多くなる。
だから、すべての人は自立している訳ではなくて、
依存できる人の数が多いか少ないかなだけなんだ」
っていうような言葉を読んだのだけれど、
ほほう、なるほど
と思う反面で
それじゃあ私のこの気持ちをどうしてくれんだよおおおおおおお
と思う自分もいるわけで。
何でだろうな と思ったら、
何かをやり遂げたときに見てくれている人がいる環境と、そうでない環境のどちらもに足を突っ込んでいるからなんだろうなあ、って思った。
だから多分、
依存できる人の人数が多くて、自立しているように見える人
依存できる人の人数が少なくて、依存体質に見える人
依存できる人の人数は少ない上に、依存することを躊躇ってしまう人
の、3種類がいるのではないかななんて思う。
そして、きっと、私は一番最後のパターンにいちばん近い。
何かをやり遂げたとき、
何かをとっても頑張ったとき、
なんでもないけど疲れたとき、
話を聞いてほしいとき、
落ち込んだとき、
嬉しかったとき、
そんなときに、うんうん と話を聞いてくれる存在がいて欲しいと思っている反面、
そんなことに付き合わせてはいけないという無駄な理性が働く。
つまんなくこじらせている性格だなあ、自分ってやつは。
自分の想像力がたくましい件について
最近、どうしても想像してしまうことがある。
冷静に考えても、冷静に考えなくても頭がおかしいのは分かっているのだけど、
無意識のうちに意識下に上がってきていることがある。
それが、
『今隣の人 / 車に、刺されたら / どつかれたら / 轢かれたら どうしようか。』
という考え。
混んでいる電車の中で、止まっている(けれど中に人がいる)車の前を通るときとか、
ほとんど必ずと言っていいほど考えている。
「いや、ここで刺されたら困るぞ、そうだあそこにいれば刺されても致命傷にならなさそう。」
「どつかれたらなんて対応する?冷静に返せる?」
「この位置関係で轢かれたらどうなるんだろう。むしろ車ってゼロ距離でどのくらいスピード出るんだろう」
実際文章にしてみるとなんて想像してるんだろうって改めてあほらしくなってしまうけれど、いや、やっぱりあほだなあ。。。
本を読んでいても、音楽を聴いていても、脳内回路に割り込んできて、そんな思考させる要因ってなんなんだろう。
ちょっともう、そんな想像は終わりにしておきたいのだよね。
敢えて、違うことを考え込んでみようかな。
さあ、お茶でも飲んで徒然な文章を書く小休止は終わりにしよう。
ゆっくり思考する
昨日、こんな映像を見まして、改めて思考の大切さを学んだ次第。
→堀江貴文(ホリエモン)伝説のスピーチ ー近畿大学卒業式ー - YouTube
ということで今日は「考える」に関連している記事を読んでの感想。
最近の研究で判明 文章が上手く書けるようになるコツとは - ライブドアニュース
要約すると、
・時間をかけて文章を書くことにより、文章が上手に書けるようになったという研究結果が出た。
・ゆっくり書くために紙とペンを使う、片手でパソコンに打ち込むなどの方法がある。
ということ。
多分、ゆっくり書くことが重要なのではなくて、ゆっくり書くことによって、思考する時間が多くなるのが「良い文章」を書くときにプラスになったんだろうな。
でも、これって文章に限らず、すべてのことに通じ基本的なことなんじゃないの?
ゆっくり思考する、思考を深化させる、自分の考えをより深く理解する。
スマートフォン、PC、タブレットから始まって、現代は早くて便利なものに溢れているけれど、あえてそこから遠ざかって、一見不便で時間のかかるものを使って思考することがより良いものを生み出すきっかけになりうるんだろうな。
私はプレゼン資料を作るとき、最初は紙にスライドのデザインを描いてからパソコンで作成に取り掛かるのが好きでやっているけど、それはきっと頭の中がぐるぐるして思考して思考してアイデアが出て、また思考して…っていう繰り返しでどんどん良いものができていくのを体感値として知っているからだと思う。
便利なものがすべて善かといったら、そうではないんだよ。
あえて不便なものを選択する意味・意義は実は大いにあるんだよ。